~特別連載~短編時代小説
「鬼火」池田久輝

2026年1月より、アールラボのスタッフでもある小説家 池田久輝(第五回角川春樹小説賞受賞作家)の短編時代小説連載がスタート!


【著者より】
この「鬼火」は、僕の担当編集から「時代物の人情噺を書いてみませんか?」と声をかけたられたのが始まりでした。

僕はそれまで一度も時代物を書いたことがなく、「え、歴史とか詳しくないんですけど大丈夫ですか?」と、思わず訊き返したことを今でも憶えています。「はい、調べながらでも構いませんので書いてみてください」担当編集はそんな風にあっさり答えました。僕は不安に思いつつ、それでもせっかくだしやってみるかと資料片手に書き出したわけです。

とはいうものの、時代小説にあまり触れてこなかったせいで、どこをどう書けばいいのかさっぱりわからない。参ったなとあれこれ悩みながら見つけた一つのきっかけが――上方の古典落語でした。全体を語り調にして、落語を書くような感じで取り組めば少しは気持ちが楽になるんじゃないかと。

そうして書き終えたのが、原稿用紙80枚の本編です。

結果、「いいですね!」と、担当編集からはOKがでました。しかし……しかしです。そこから上に原稿が回った時、ボツになってしまいました。まあ、出版業界ではよくあることです(笑)。

というわけで、この短編はこの先おそらく世に出ることはないでしょう。校閲が入っていませんので誤字脱字に加え、時代考証に誤りがあるかもしれません。そんな未熟な原稿ですが、よろしければお楽しみください。(僕はとても気に入っていますので……)

鬼火 おにび 池田久輝

一章

 いや、ほんまに参りましたわ、うちの 若旦 わかだん はんには。
 もう二十五にもなるいうのに、店を ったらかしてあっちへぶらぶら、こっちへぶらぶらってな具合で。じっと座っとってください言うてもあきまへん。
「なんやじめじめしてきたな。大川おおかわ に行って涼んでくるわ」
 ついさっきもこれですわ。汗かいて仕事してるんは私の方ですねん。
「待ってください。もうちょっと本腰入れて商売してもらわんと」
「そんなもん、おまえに任せとったら大丈夫やろ。そのために番頭のおまえがおる」
「なにを言うてはるんですか。大旦那はんが隠居したら、若旦はんがこの店を継ぐんでっせ。その準備をしておいてもらわんと」
「親父はまだまだ隠居せんよ」
 若旦はんはいつも無邪気に笑うだけですわ。小袖の裾を両手でちょいと手繰り上げて、「暑い暑い」言いながら出て行ってしまいました。毎度毎度のことなんで、もう追いかける気にもなりまへん。ため息しか出てきまへん。
 けど、やっぱり憎めんのですな。気持ちよさそうに浄瑠璃の一節を口ずさんで、ゆらゆら揺れる背中を見てますと。 昔からなんも変わってません。私、若旦はんが「おぎゃあ」と産声を上げた時から世話をしとるんですけど、ほんまあの頃のまんまです。それがええんか悪いんか、ようわかりまへん。
 若旦はんの名前は「定露さだつゆ 」いいます。なんや仰々しい名前でっしゃろ。
「露」の字は、ここから北西にある露天神社つゆのてんじんじゃ ――おはつ天神のことですな――そこから拝借してるんです。大旦那はんがえらい信心深い方でね。まあ商売やってまっさかい当然ですな。繁盛を祈願して、大旦那はんは毎週のように天神さんにお参りしてはります。
高安たかやす〉いう饅頭屋ですねん。大旦那はんで三代目。若旦はんが四代目を継ぐことになっとります。
 天満てんまの西の方ですな。東には青物市場、西には堂島どうじまの米市場、そこから川に沿ってさらに西に行けば雑喉場ざこばの魚市場がありまさっかい、この辺りは特に商売人が多いんですわ。
 それもこれも大川のおかげです。この川の流れに運ばれて、いろんなところから、いろんなもんが届きますんや。
  私、清六せいろくいいますねん。十五の時から〈高安〉に奉公してまして、えらい世話になっとるんです。今年の五月で四十三になりましたさかい、もう二十八年でっせ。早いもんですな、まったく。
「あら、露は?」
 表の暖簾をくぐって現れたんは正之助まさのすけでした。三軒隣りで建具屋をやっとる男です。若旦はんと幼馴染で、二人は子供の頃からよう一緒に遊んでました。正之助の方が一つ上で、壁みたいにがっしりした体してますねん。「壁之助」なんてあだ名をつけられるくらいです。うちの若旦はんはすらっとした細身やさかい、えらい対照的ですな。
「大川に涼みに行く言うて、さっき出て行きましたで」
「相変わらずやな」
 正之助の声は張りがあって分厚い。体つきと同じです。この声で一喝されたら、大抵の者は怯んでしまいまっせ。
「正之助はん、うちの若旦はんに言うたってください。しっかり働けって」
「まあええがな。清六さんがちゃんとしてるんやから」
「せやかて――」
「俺もなんべんか言うたけど、露のやつはどこ吹く風や。しゃあないわ、あいつは昔から雲みたいな男やねんから、今さら変わらんて」
 私、それ以上言い返せませんでしたわ。若旦はんは確かに雲みたいなお人です。それは私が一番ようわかってますねん。
「露のやつ、大川に行ったんやな」
 正之助が背後を振り返って言いました。
「ええ、天神橋てんじんばし 難波橋なにわばしあたりとちゃいますか」
「さよか、釣りでもどうやと誘いにきたんやけど」
「釣りって、まだ八つ半でっせ。正之助はんとこの店はどうしましたんや」
「今日はもうしまいや。客が一人も来ん。こんな日は珍しい」
 正之助の腕前は相当なもんです。父親も評判の職人でっさかい、わこうしてきちんと技術を受け継いどります。図体の大きさに似合わず、指先は繊細なんですわ。
 正之助は胸の前で太い腕を組んで、ちょいと小首を傾げました。黒々とした髷に乱れはありまへんし、たくし上げた小袖の裾もさほど汚れてまへん。本人が言うように暇やったんでしょうな。
「そういや清六さん、おもろい話、小耳に挟んだわ」
 正之助が切れ長の目を細めて声を落としました。
「なんでっか」
「ここ最近、大川で魚がよう釣れるらしい。釣り船がぎょうさん出て、川を埋め尽くしてるんやと。そのせいで船がぶつかりうて相撲を始めた。船相撲やいうて野次馬が集まっとるって噂や」
「はあ? あほらしい」
「わかってる。けど、露のことや。あいつはそんなおもろい話に目がないからなあ。確かめに行きよったんとちがうか」
 私、素直に頷きましたわ。正之助の言う通りです。若旦はん、けったいな話、大好物ですねん。
「どうや、清六さんも一緒に」
「行きまへん。どうせ法螺に決まってます」
「ははは、そう怒らんでもええがな。誰も信じてへんわ。見物客がおったら、ちょっと茶化すだけや」
 正之助は野太い声で笑います。正之助は薄い顔立ちなんですけど、笑うと目もとがくしゃっとなって、なんや愛嬌があるんですな。
「その前に酒饅頭一つくれるか。動いてへんでも腹は空く」
 正之助は帯に挟んだ藍染の巾着から二文取り出しました。
「へい、まいど」
 酒饅頭は〈高安〉の名物ですねん。うちの売りはなんというても厚めの皮です。小麦の粉を細こうふるいにかけて、そこに酒種と水を混ぜてようこねますんや。代々受け継がれてる酒種です。発酵させた米の麹ですな。この麹のおかげで皮がふっくら仕上がって、ぷうんと甘酒みたいな香りが際立つんですわ。
 正之助は酒饅頭を受け取るなり、その場でかぶりつきました。大きな口や、あっちゅう間に半分以上が胃の中です。
「せや、おもろい話いうたら……」
 私、そこでふと思い出したことがありました。
 先月のことですわ。若旦はん、三十石船さんじっこくぶね に乗って京都に出かけて行きましたんや。〈高安〉から東に歩いて大川を南に渡ると八軒家はちけんや いう船着場がありまして、京都の 伏見ふしみまで行き来してますねん。
 びっくりしまっせ、出かけた理由を聞いたら。
 若旦はん、「手から火の玉を出す男がおる」いう噂を聞いて、わざわざ船に乗りましたんやで。笑いますやろ。
「それ、ほんまか」
 正之助は饅頭を食べ終わって、指先についた皮をしゃぶってました。
「手から火の玉て、どういうことや」
「知りまへんがな」
「露はどう言うてたんや」
「なんも。訊いても答えてくれまへんでした。さっきの船相撲と同じで、どうせ法螺話やったんでっしゃろ」
「ふうん、おもろいやないか」
 正之助は子供みたいに目を輝かせます。
 私、そん時ようわかりましたわ。若旦はんだけやのうて、正之助も昔から変わってまへんのや。さも愉快そうににやつく顔は、それこそ大川で水浴びしてた子供の頃のまんまです。
 人っちゅうんは、そう簡単に変わらんもんですな。


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