~特別連載~短編時代小説
「鬼火」池田久輝

三章

 それから五日ほど経ちました。意外なことに佐吉は〈高安〉に姿を見せまへんでした。毎朝来るかと思てたんですけど、店先に立ち寄るんは腹を空かせた野良犬ばかりですわ。余りもんの饅頭くれ言うてね。
 不思議に思て若旦はんに訊ねてみたら、「ええ仕事にありついたんちゃうか」て、えらいあっさりした答えが返ってきます。なんやもう興味がのうなったみたいな感じです。急にどないしはったんやと首を捻りましたけど、まあ、若旦はんはもともとこういうお人です。気紛れなとこが大いにありまっさかい。
 さて、その日の六つ頃のことです。そろそろ店じまいしよかと片付けてたら、建具屋の正之助が訪ねてきました。
「若旦はんはおりまへんで。昼から大旦那はんと一緒に出かけてます」
「……そうか」
 いつも威勢のええ正之助にしては元気がありまへん。小袖と帯の間に指先を突っ込んで唇を尖らせてます。正之助はしばらくそのままの姿勢で突っ立ってました。
「若旦はんに用事やったら伝えておきまっせ」
「いや、用事っちゅうことでもないんやけど……」
 なんや歯切れが悪い。
「どないしたんです」
「清六さん……俺の目ん玉おかしなってしもたんかな」
 正之助は頭をかきながら、ぼそっと口を開きました。
「はあ?」
「この前、火の玉がどうのこうのって話してたやろ。露が京都に見に行ったって」
「ああ、あのでたらめの――」
「俺もそう思とった」
 正之助はそこでふっと息を吐いて、まぶたをやんわり揉んだあと続けました。
「昨日の晩のことや。四つ過ぎ頃、なんや蒸し暑うて寝られんから、うちわ片手に冷や酒持って外に出たんや。ほんで川べりまでぶらぶら歩いて、土手に寝っ転がってぼうっとしとった。ええ風が吹いてきよる。ちびちび酒を呑んでたら気持ちようなって、うとうとしてしもた。このまま寝てもええか思てたら……びっくりや。目の前に鬼火が現れよった」
「鬼火?」
「しかも二つ。川の真ん中辺りでゆらゆら揺れとるんや。俺、眠い目ん玉こすって慌てて飛び起きたがな」
 正之助は小首を傾げて言いました。自分で口にしながらも半信半疑てな感じです。そりゃそうですわ、鬼火を見たなんぞ誰が信じますかいな。
「酒が回って酔っぱらったんでっしゃろ」
「それやったら大笑いして話してる。そりゃあ酒は呑んどったよ。けど酔っぱらったからって、景色が二重に見えることはあってもやな、鬼火を二つ見ることはそうないで」
 正之助は指を二本立てて、顔の前でちらちら左右に振ってます。あほらしい思いましたわ。そんなもん酒のせいに決まってますがな。
「わかっとる、清六さんの言いたいことは。俺かて本気で鬼火やなんて思てるわけやない。さっき、川の真ん中で言うたやろ。はじめは誰か船の上で松明焚いてるんかと思た。夜釣りでもしてんのか、俺と同じで涼みに来てんのか知らんけど、けったいなことしよる奴がおるなって岸から眺めとった。実際、その火に照らされて、ぼやっと船の横っ腹が見えたような気もするねん……そしたらや、鬼火が突然ふわっと消えよった。ほんでまたすぐにぼわっと出てきよる」
「消えたら、また点いたんでっか」
「そうなんや。俺が鬼火や思たんはそのせいや。松明は点滅なんかせん」
 まあ確かに正之助の言う通りです。松明が点滅するやなんて聞いたことありまへん。けど、だからいうて簡単に「鬼火や」とはなりまへんわ。
「ほな、船ん中で誰ぞが煙管でも吸うてたんとちゃいますか。火種やったら吸うたんびあこう燃えますがな」
「火種なんて小こい。鬼火はもっと大きかった」
「そんくらい大きな煙管やったんでっしゃろ」
「そんな煙管はあらへん」
「正之助はんが知らんだけで、あるかもしれまへんがな。大坂は広いでっせ」
 正之助はなんや言い返そうとしたみたいですけど、ぐっと呑み込みました。
「で、その火は最後どうなりましたんや」
「下流の方へゆっくり流れて消えてしもた。それでしまいや」
「ふうん。まあ鬼火かどうかはさておき、けったいな船でんな。夜分に船を出すやなんて危のうてしゃあない」
「うーん、あれは一体なんやったんや」
 正之助はぼそっと零して、唸りながら帰って行きましたわ。納得がいかんのでしょうな。
 私、正之助の性分は昔からよう知ってます。職人気質いうこともあって、適当なことは口にせん男でっさかい信じてやりたいんですけど、やっぱり鬼火やなんて鵜呑みにできまへんわな。 
 その日、店じまいしたあとも、若旦はんは〈高安〉に戻ってきまへんでした。大旦那はんと一緒に出先から屋敷の方へ帰らはったんでしょう。
 大旦那はんの屋敷は大川を渡った向こう岸の北浜きたはまにあります。
 敷地はそない広いわけやないですけど、なかなか立派でっせ。長屋門をくぐった先にある庭がまたええんです。背の高い松の木が二本植わってて、一面に苔生した緑が広がってますねん。で、その間を縫うように石畳が式台まで続いてます。私、その石畳を歩く度に浮世絵みたいやな思いますんや。広うないぶん手入れもしやすいんでしょうな。
 もともとは、なんたらいう大名の蔵屋敷やったそうですわ。どこの藩やったかいな、ちょっと忘れてしまいました。すんまへん。
 この周辺には蔵屋敷が多いんですわ。広島藩、高松藩、福岡藩……一説では百を超えてるいう話でっせ。よう知りまへんけど。
 とにかく、それもこれも大川の水運が便利やからです。年貢米やなんやと各々の郷から船で物資が届きますわな。そしたら川で荷揚げして、すぐに保管できる建物があった方が都合ええですがな。せやさかい、蔵屋敷がぎょうさん建ち並んだいうわけです。
 けどまあ、そんだけ数があったら没落してしまう藩もあるんが世の常ですわ。そのうちの一つを〈高安〉初代の壱定いちさだいう方が買い取らはったと聞いてます。
「ちょっと、あんた」
 嫁はんのハツです。そろそろ寝よかと〈高安〉の二階にある部屋で布団を敷いてたんですけど、ハツがその手を止めて格子窓の方をじっと見てますんや。
「どないした」
「えらい外が赤いやないですか」
「はあ?」
 私も格子窓に目をやりました。
 驚きましたがな。嫁はんの言う通り、窓の向こう側がぼんやり赤うなってるんですわ。
「火の粉でも飛んできましたんか。まさか火事やないでしょうね」
 ハツがじっと外を覗きます。
「それはないやろ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ声もせん。火事にしては静か過ぎる」
「そうやねえ、半鐘も鳴ってませんし……あ、消えました」
 ふっと窓の外が黒うなりました。さっきのはなんやったんや思てたら、次の瞬間ですわ。また赤うなったんです。
「あら、やっぱり火の粉とちがいますか」
 ハツが不思議そうに言いました。
 私、なんべんも目をこすりました。
 笑わんとってください。恥ずかしい話、気付いたら布団に尻もちついてましたんや。
「……ひ、火の粉やない」
「ほな、なんですの」
 自分でもわかるくらい声が震えてます。私、格子窓を指差して言いました。
「お、鬼火や……正之助はんが言うてた鬼火が出よった」



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(2026年2月14日更新予定)